- 地盤情報特集
地域の防災力と文化資源との相関について
地域の防災力と文化資源との相関について
●本稿の趣意
本稿では「文化財」に代表される過去の「文化ストック」など、有形・無形の文化的資料を文化資源と称する。そしてその存在が災害耐抗力を立証する根拠となり得ることを示し、当該地の「立地を評価」する指標として有意であることを論じる。
この文化資源を、仮に「考古学的、古生物学的、歴史的、建築学的、宗教的、審美的、その他の文化的に重要である物、用地、建造物、建造物群、並びに自然の造作および景観」と定義する。これらは星霜を経て今日もなお存在し続けているものであり、歴史的経過時間を伴っている。
●災害に関わる文化資源の事例
2011.3.11東日本大震災を契機として、災害文化を「文化資源」として継承することの意義を訴える報道が相次いだ。伝えられた事例を以下に紹介する。
1.災害記念碑・石標の教え
「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津波。此処より下に家を建てるな」。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑に刻まれた言葉である(図1参照)。東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。地区は1896年、1933年と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
このような災害伝承を国として整理集約し、インターネットを 活用し広く公開したのが消防庁の「全国災害伝承情報」である。その目的は災害に対する教訓を個々人の防災意識の向上に役立てることとしている。
2.非常時の瞬発力(口伝、津波てんでんこ)
東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。立っていられないほどの横揺れが一段落すると、一斉に校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみこまれた。
3.先人からの知恵と警告
2011年11月に宮城県神社庁で開かれた「伝統文化セミナー」によると、歴史の古い神社ほど東日本大震災の津波被害から免れ、多くが津波浸水の境界に建っていた。津波工学の今村文彦東北大教授によれば、「神社仏閣が緊急時のランドマークとして津波が浸水した境界に建立されている」と述べた。環境評価調査などを行う海洋プランニングの熊谷航氏は、福島県南相馬市の神社を検証、古い神社は海岸から離れた安全な標高に立地、津波も浸入しづらい場所にあったと報告した(図2:宮城県神社被災マップ参照)。また、鎮守の森や屋敷森(※)なども津波の破壊力を減衰させる効果が見られ、流出神社はほとんどが比較的新しい神社であったと指摘している。(※鎮守の森:神社の拝所や参道を囲むように維持された森林 屋敷林:住宅の周りに暴風・防雪を目的として形成した森林。)
神社本庁の調査は、貞観地震から約60年後に編纂された延喜式神名帳に記載された古社は東日本大震災の被害が軽微だったことや、津波で大打撃を受けた石巻市にある零羊(ひつじ)崎神社のように、被災者の受け入れなど神社が救援活動の拠点として機能したことを指摘している。
横浜国立大の宮脇昭名誉教授は、被災地を調査し「根の浅いマツやスギは津波で軒並み流されたが、鎮守の森は流されずに残っていた」と報告し、土地本来の木々(潜在植生)による森の再生を提唱。高木層、亜高木層、そして低木層などなどが生える重層的な樹林では、さまざまの樹高の木々が根を張り、互いに支え合うことで流亡を抑制するという。
東北大東北アジア研究センターの平川新教授(江戸時代史)らのグループは震災後の国土地理院の航空写真を基に津波浸水域図を作製し、旧街道や宿場町の地図と照合した。現在の宮城県岩沼市から茨城県水戸市へと続いていた太平洋岸の主要街道「浜街道」に着目。岩沼市の岩沼宿から山元町の「坂元宿」までの街道と宿場の大部分が、浸水域から僅かに内陸部に位置し、被害を免れていたことが確認(図3古街道と津波浸水域参照)できる。この地域では、1611年に慶長三陸津波が起こっており、その記録を文化資源として継承し現在の位置に変更したとすれば学ぶべき貴重な先例となろう。
●文化資源と災害ポテンシャル
寺社のみならず、文化資源として現存する地物には歴史災害を超克して存在し得た、なにがしかの理由があり、土地が持っている防災力を示す有力な傍証である。
前記の被災調査や報告例に見られるように、永らくその土地に存在した地物は固定物である限り、存立期間中に起こった災害をすべて経験したはずであるから、当該地が受けた最大規模の災害に対して免疫があることになる。これをその立地地点の防災力と規定するなら、任意地点において、その周辺に存在する文化資源と同等の立地条件を備えている場合に同種の災害にたいしては同等の防災力を持つと解される。
●まとめ
東日本大震災でも多くの文化資源が破壊されている。しかし過去、幾多の災害をくぐり抜けて健全に残存している文化資源もある。たとえそれらの免災理由が明確でなかったとしても、その存在は当該立地における存立期間中の災害耐抗力を示す情報であることに違いはない。これに地形区分、地質区分、標高、傾斜度などの既知の情報を加えて災害に対する土地の免疫力を総合的に判定でき、誰でもが容易に利用できるのであれば、未来の被災規模を最小化することに寄与できると思われる。
通常、災害リスクの大きい立地条件について数理的な法則性を見いだすことには熱心であっても、災害による淘汰・滅失を免れたものの時間価値に注目した研究は少ないように思われる。筆者らは文化資源が持っている歴史時間及び地域残存度などを調べることにより、災害記憶(=災害免疫)の抽出が可能であると考える。そしてその災害記憶をデータベース化することで、災害に強い場所の容易な把握など、防災に活用することを目指している。
参考文献
「断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究」(リンク先PDF) 是澤紀子(2008) 日比科学技術振興財団
「文化財の調査研究および保護に対する地理情報システムの利用」 東京文化財研究所他(2006)
「自然立地的土地利用の思想」 井出久登(1985) 東京大学出版
「神々の風景-信仰環境論の試み」 野本寛一(1990) 白水社
北海道新聞 「東日本大震災3月27日 防災の教え、命救った
釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散」
“http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/earthquake0327/124759.html” (2012/9/11閲覧確認)
「国土交通白書2012 第1節 震災からの復興 コラム 三陸の過去の津波災害と高地移転」 国土交通省
“http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h23/hakusho/h24/html/n111h000.html“(2012/9/11閲覧確認)
「10万分の1浸水範囲概況図」 国土交通省国土地理院
“http://www.gsi.go.jp/kikaku/kikaku60003.html” (2012/9/13閲覧確認)
田中 英輔(タナカ エイスケ)
NPO住宅地盤品質協会 顧問
NPO住宅地盤品質協会にて要職を歴任。
2011年までは地盤保険「The PERFECT10」の審査員としても活躍。
近著(執筆)に「強い住宅地盤-住宅基礎地盤の失敗例に学ぶ-」住宅地盤品質協会 編(総合土木研究所)